生きる

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先週の土曜日、おじいちゃんの通院忘れてしまった。
落ち込んでいるところ、新しい仕事のことで頭がいっぱいいっぱいだったから。

診察の予約は翌々週の土曜に取り直したが、お薬が9日でなくなるとのこと、
診察なしの場合は本人がいなくていいそうなので、明日は私ひとりで受診することに。
祖父の送り迎えがない分、時間はかからないけど、終了時刻は読めない。
入社して早々どうかと思うけど、とりあえず午前半休にしてもらった。

4.5月はおじいちゃんのことで頭がいっぱいいっぱいだったな。
スケジュール表の土日は全部祖父で埋まっていた。
猫様のことも、もう少し注意してあげればすぐにわかった簡単なことがきっかけだけに、本当に最低で酷い人間だと自分で思う。

それなのに、今はまだ、おじいちゃんのことが心の負担であるし、
猫様が亡くなった原因のひとつでもある、おじいちゃんが憎らしくも思うから、会うのが苦痛だ。

だからと言って、頬っておけば、また何かあったら自分を責めてしまうだろう。
自分に鞭を打って苦痛に耐えて頑張るしかない。

申し訳ないけど、○○さんにはしばらく電話を控えて欲しいとお願いした。
□□さんには、何も言ってはいないけど、しばらく届いた手紙は読まないことにした。

自分が壊れないためにしばらくは仕方ないと思う。
○○さんも、□□さんも猫様やおじいちゃんとは違って自分たちの行いによる因果応酬だから、尚更、致し方ない。

猫様は本当にいい子で、悪いこととか一度もしたことないし、
穏やかで優しくて、あんな子滅多にいない。
そんないい子なのに、長いこと痛くて腹をすかせていて、
更に最後は逃げられない激痛に何日も本当に苦しんで死んでいった。

大元の原因は仕方ないことだけど、普通の飼い主ならば、気がつくようなことを
気がつかずに頬っておいたため、色んな病気になってしまい。
それでも最後は介護したはずが、失敗して余計な苦しみを負わせてしまったり・・・。

神様はやはりいないのか?

あれ、まてよ。
因果応酬ならば猫様は幸せにならなきゃオカシイじゃないか。
来世があるのか?あの世があるのか?
どうにか幸せになってて欲しい。

私は今回のことで随分沢山のことを得た。
今まで何度となく辛いこともあって、その度に反省もしたし、色々考えもした。
それなのに、何かあれば他人のせいに思ってみたり、人の言動に不満をもってみたり・・・。
思いやりがないよな・・・ちっとも改善されていないではないか?

それがどうだ、最近はそれがない。
喜怒哀楽の ”怒”がない。

今は哀に耐えるため、全体的に無感情になるように、自然となっているからなのか?
それとも、今度こそやっと多少の思いやりが持てる人間になったのか?
だとすれば、その一点だけを考えればプラスの経験をしたということだ。

しかし、私はいい死に方をしないだろうなぁ。
介護の人に誤嚥とかさせられたり、誤診で治療したりして苦しんで痛がって死ぬんだと思う。
因果応酬ならば、仕方ないと頭では思うけど、
それでもやっぱり痛いのは嫌だって本能で思っちゃうんだろうな。
その頃、口が聞けなかったら痛いとも苦しいとも伝えられないしね。
生きるのって本当に大変。

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